日本橋小田原町に居を定めた芭蕉は、1677年(延宝5年)から1680年(延宝8年)までの四年間、神田川の水道工事に従事しました。

「町触(まちぶれ)」に神田上水の改修工事に携わったことを示す記載が残されていますので、その事実に争いはないようです。

しかし、芭蕉は、その工事に一労働者となって従事したに過ぎないのか?それともその工事の請負人となって一日に数百人の人夫を差配するなどしていたのか?となると見解が分かれています。

どちらの見解を採るかは、芭蕉の人間像理解に大きな違いが出てきます。一労働者に過ぎなかったのであれば、後の詫び寂びの世界との繋がりを理解するのは容易ですが、一日に数百人の人夫を差配していたとなると芭蕉は世間並み以上に処世術にもたけていたことになり、後の詫び寂びの世界とはイメージがうまく繋がりません。

請負人説は、1680年(延宝8年)6月に出された「町触(まちぶれ)」に、「神田上水の上流域で「惣払」を実施するので、町々でその分担箇所を事前に話し合い、その結果を桃青(芭蕉)方まで報告するように。桃青に報告していない町々の月行事は・・・担当区間の割り当てを受けるように。」との記載があるところからすれば芭蕉は名主業務の代行者たる「町代」であったと考えられること、藤堂本家が幕府より神田川改修工事を命じられており芭蕉の元の主人藤堂藩侍大将藤堂良精が惣奉行として小石川周辺に出張し芭蕉もこれに従ったとの記録があること、などを根拠としています。

素人判断にしかすぎませんが、「町代」は名主を補佐する有給の事務員に過ぎず町内の序列も下位に位置付けられていたこと、惣奉行藤堂良精に従ったといっても芭蕉は良精の嫡子良忠に仕えた軽輩であって郷士の身分を失っていた農民の子に過ぎなかったこと、などからすると、「一日に数百人の人夫を差配」していたとするのは、飛躍がありすぎると思われます。

とはいえ、芭蕉請負人説は、その後の芭蕉との落差が多くの人々に魅力的に映ります。作家嵐山光三郎がこの説の提唱者の一人であることも頷けます。

ところで芭蕉が神田川の水道工事に従事した際、関口村の龍隠庵に居住したとの伝承があり、この伝承に基づいて葛飾蕉門の長谷川馬光らが五月雨塚を築きました。それに始まるのが、関口芭蕉庵です。

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<絵本江戸土産より>

芭蕉がこの工事に従事するようになる前年である1676年(延宝4年)12月27日、芭蕉が住んでいたとされる日本橋大舟町や日本橋小田原町周辺一帯が大火に見舞われ、芭蕉も焼け出されていた可能性が高いのです。龍隠庵即ち関口芭蕉庵は、被災後の芭蕉の一時避難場所になっていたと考えられるのです。

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<関口芭蕉庵>

この関口芭蕉庵へは、地下鉄有楽町線江戸川橋から神田川沿いの散歩道を上流へ向かいます。

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川面を眺めると鯉が泳ぎ、亀が甲羅干しをしています。都心にこんな場所が残っていたのだと、うれしくなりました。

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<神田川の鯉と亀>

続く