これまで東京大空襲の爪痕を訪ねる旅をしてきましたが、その唯一の総合資料集「東京都戦災誌」は、「とりわけ遺憾なことは被害数字の適正なものがなく」「しかも現在これを補正しうる資料も方法もない」と嘆いています。要するに正確な死者数は日本側の資料では判明しないのです。

 東京都慰霊堂に眠る第二次大戦の殉難者は、軍関係以外の一般都民で87,595人、その殆どが東京大空襲の犠牲者と考えられます。以上の「無縁仏」の他に、遺族に引き取られていった仏様ざっと20,000体を合わせると、107,595人になりますので、少なくとも東京大空襲の犠牲者は100,000人を超えているのは間違いありません。

 正確な死者数が判明しないだけでありません。米国戦略爆撃調査団が戦略爆撃がもたらしたであろう被害実態と、その爆撃効果を知るために作成した報告書では、「全く信ずることができないくらい」信頼できる資料が少ないこと、日本政府による科学的調査活動が欠けていたこと、とりわけ空襲中の死傷者についての調査資料が絶無であったこと、等と指摘されています。

 理論物理学者武谷三男も、「政府による公式の、または非公式の、またはそれ以外の科学的な調査というものが、全く欠けていることは、おどろくべきことである。・・・ドイツ人によって、ドイツの空襲の全期間を通じて集められた膨大な資料を見たことのあるものにとっては、非常におどろくべきことである。」と指摘しています。

 これらは、一見すると戦争のどさくさの中での事務処理上の不手際の指摘に過ぎないようにも見えます。

 しかし、ここに指摘された不手際は、戦争当時の国の指導者たちの価値観・政治理念から導かれる当然の結果と思えてなりません。当時の国の指導者たちのあ頭の中を支配していたものとは、どのようなものだったのでしょうか?

 まず挙げるべきは、神仏頼みの精神論至上主義です。

 ミッドウエー海戦に敗れて戦闘の主導権を失った後の1943(昭和18)年2月23日、陸軍報道部は「撃ちてし止まむ」の決戦標語を大々的に発表しました。この標語は、古事記の神武天皇の御製からとったもので、一億国民よ、今こそ発揮せよ大和魂と鼓舞するものでした。

 また、戦況がさらに悪化した1944(昭和19)年に入ると、内務大臣の名で全国16,000人の神主神職に対し「驕敵を一挙撃滅し、神州を奉護する祈願を諸神社にて一斉に実施すべし」との訓令が発せられました。その結果、世の中はさらに神がかりになり、「神風は絶対に吹く。」の声が日本中にこだまするようになりました。

 その精神を体現した究極の軍事作戦が、同年10月のフィリピンのレイテ沖海戦で初めて行われた神風特攻隊の体当たり攻撃で、あたら若者を死地に赴かせてしまいました。その上、この海戦で日本海軍を事実上壊滅させてしまったのです。

 次に挙げるべきは、「由らしむべし、知らしむべからず。」と、不都合な真実の存在は一切国民に知らせるべきではないとする考え方です。何か今の政治でもしばしば使われている手法にも思えますが、脱線は止めにしましょう。

 1944(昭和19)年2月23日、時の東条英機首相は、一億国民が竹槍をもって戦えば九十九里浜で米軍の本土上陸を粉砕できると息まいて激を飛ばしたのに対して、毎日新聞が「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ 海洋飛行機だ」との記事を掲載したことに激怒。新聞の発行禁止を命じるという言論弾圧事件「竹槍事件」を引き起こしました。

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 アンデルセンの童話「裸の王様」の話のとおり、大人は誰も「王様は裸だ。」と言えなくされてしまったのです。

 また、10万人以上の犠牲者を出し、東京の下町が焦土と化すような被害を受けた大空襲翌日の朝日新聞は、勇ましく「B29百三十機、昨暁帝都市街を盲爆、約五十機に損害、十五機を撃墜す」「軍官民は不敵な敵の盲爆に一体となって対処」し「わが本土決戦への戦力の蓄積はかかる敵の空襲によって阻止せられるものではなく、かえって敵のこの暴挙に対し滅敵の戦意はいよいよ激しく爆煙のうちから盛り上がるであろう。」と報道しています。

 威勢のいい記事ですが、もはやマスコミには、「竹槍事件」事件で示した程度の真実を表明する意欲も自由も残されていなかったのです。

 最後に挙げるべきは、国民の命を極めて軽くみる考え方です。

 国民に対して、敗勢濃厚な戦局に対応すべく、「死は鴻毛よりも軽し」「死して悠久の大義に生きる」といった武士道精神を、徹底的に叩き込みました。

 その結果、うら若い青少年達が、志願の名のもとに、次々と特攻隊の体当たり攻撃に加わっていったのです。

 半藤一利氏のB面昭和史に、一つのエピソードが記されています。

 「木更津の第三航空艦隊の飛行隊長であった美濃部正海軍少佐は、作戦会議の席上『たとえ銃殺刑を受けることになろうとも甘んじて受けよう。』と決意して、『練習機までつぎ込んでいる戦略戦術のあまりにも幼稚な猪突で、本当に勝てると思っているのですか。・・・訓練も行き届かない少年兵、前途ある学徒を死突させ、無益な道づれにして何の菊水作戦ですか。』と作戦に正面から反対論をぶった。その結果、同少佐が指揮する芙蓉部隊の三百人は特攻編成から外され、夜襲部隊として菊水作戦に参加することになった。」

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 美濃部少佐の部下を守るための命がけの反対に感動を覚えながらも、軍隊における人の命の軽い扱いには、ため息をつかざるを得ません。今の政府の指導者達にこのような人たちが居ない、と断言できれば幸せなのですが。

 これまで、東京大空襲で多大な被害を受けた場所を巡りながら、当時の国民の置かれていた状況にも最低限触れてみました。

 最後に、東京大空襲に関わる戦後の話題を二つ提供させていただきます。

 一つ目は、かのルメイ将軍に関するものです。東京大空襲の指揮官ルメイ将軍は、日本の軍事生産は家内工業に頼っていることを理由に、軍事施設だけでなく地域群への無差別攻撃を加えました。もはや、これは戦争犯罪と言っても過言ではありません。

 それなのに、日本政府は、ルメイ将軍に対し、1964(昭和39)年12月6日、勲一等旭日大綬章を贈りました。堂々たるというべきか、ふてぶてしいというべきか、その自信満々の姿を紹介します。

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 授章理由は、「戦後、日本の航空自衛隊の育成に協力した。」でした。

 二つ目は、東京大空襲の被害回復へ向けてのものです。東京大空襲によって甚大な被害を受けた人たちは、一切の補償を受けていません。国の起こした戦争によって被害を受けたという点で同じなのに、元軍人・軍属やその遺族が総額60兆円に及ぶ恩給や年金を支給していることと比べると、余りに不平等ではないか、ということがかねてより言われていました。

 2017(平成29)年4月、超党派の空襲議員連盟(会長河村建夫元内閣官房長官)は、「空襲被害者特別給付金法」の骨子案をまとめました。

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 空襲等で身体障碍を負った被害者に限り一時金50万円の支給や国による被害実態調査を定めています。一刻も早い立法化が期待されます。

 以上をもって、東京大空襲の爪痕を訪ねる旅を終わりとさせていただきます。

 東京大空襲の記憶は、風化が進んでいます。空襲被害者が一人もいなくなるのもそう先のことではありません。二度とこのような被害を生まないためには、普段は仕事とか飲み会に忙殺される日々を送り、僅か半日の小さな旅に参加しただけの普通の生活者が、偶々今回の旅で知ることができた戦争の恐ろしさ、愚かさの一端を周囲に伝えていくことも大切になってきます。

 東京大空襲の記憶を、猿江恩賜公園のあの誰も由来を知らない「石碑」のような状態にしてはいけません。今回の旅が、平和への願いに繋げていくきっかけになれば幸いです。

                                                     完