次に、滝田ゆうが玉ノ井を描いた漫画「寺島町奇譚」の世界を訪ねてみます。

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 滝田ゆうは、1932(昭和7)年寺島町に生まれ、戦前の玉ノ井の私娼街の雰囲気を知悉しています。この漫画からにじみ出ている雰囲気こそ、お雪のいた時代の「玉ノ井」が発散していたものです。作家の吉行淳之介が、この漫画を「哀しくやさしく淋しく愉しく薄幸のようで豊かな作品」と評しているのは、的確な指摘と思われます。

 吉行淳之介を取り上げたのですから、玉ノ井に縁が深かった永井荷風、前田豊の二人の作家の玉ノ井記も取り上げない訳にはいきません。

 荷風は、濹東綺譚で玉ノ井の私娼街を「雨のしとしと降る晩など、ふけるにつれて、ちょいちょいとの声も途絶えがちになると、家の内外に群がり鳴く蚊の声が耳立って、いかにも侘しさが感じられて来る。それも昭和現代の陋巷ではなくして、鶴屋南北の狂言などから感じられる過去の世の裏淋しい情味である。いつも島田か丸髷にしか結っていないお雪の姿と、溝の汚さと蚊の鳴く声とはわたくしの感覚を著しく刺激し、三,四〇年むかしに消え去った過去の幻影を再現させてくれるのである。わたくしはこの果敢(はかな)くも怪し気なる幻影の紹介者に対して出来得ることならばあからさまに感謝の言葉を述べたい。」と表現し、懐古趣味溢れる紹介をしています。

作家の前田豊は、ここでの私娼と客とのやり取りについて、「ラビラントに足音がすると、立ち並ぶ娼家の1尺四方位の小窓から、女が顔をのぞかせて「ちょっと、ちょっと、兄さん」「ねえ、ちょっと、旦那」「ちょっとここまで来てよ。お話があるの。」と呼びかけが始まります。その口調は、哀れっぽく泣きつくようなものから、がなり立てるようなもの、細く長く訴えるものまで、まさにコンクールのように多彩であったそうです。」と述べて、猥雑な中に素の人間の姿が見て取れる玉ノ井の姿を描いています。

何れも玉ノ井の一面を鮮やかに切り取っています。これだけの道具立てが揃え

ば、ラビラントのざわめきまで聞こえてくる気がします。

次いで、戦後に発展した玉ノ井を歩きます。

旧玉ノ井は、1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で全焼し、壊滅状態になりましたが、この周辺は敗戦の同年8月15日まで全く女っ気がなかったわけではありません。いろは通りの北側、現在の墨田三~四丁目あたりの非罹災地では、罹災娼婦を吸収して営業を始めるところも出ていました。

 戦後に本格的に営業を始めた新玉ノ井私娼街は、吉原や新宿と比べて玉代が安かったと言われています。玉ノ井の私娼街が富裕な客ではなく、町工場の労働者などありふれた庶民の客で成り立っていたのですから、当然と言えば当然のことでした。

前田豊は、戦後の玉ノ井を、ラビラントもなくなり、場所も商店街の殺風景な裏通りで、オートバイやトラックも通り、色町の雰囲気などみじんも感じられぬ非情緒的町であったと振り返っています。

戦後の玉ノ井は、敗戦直後、進駐軍の兵士から一般婦女子の貞操を守るための防波堤と位置付けられ、内務省警保局長は、全国の警察署長宛に性的慰安施設の急速な充足を指令しました。当時の私娼地の役員連中は、大手を振るって役所や警察に出入りし、役人たちは彼らに頭を下げっぱなしだったと言われています。

ところが、性病の罹患率が高いことを理由に1947(昭和22)年1月15日、勅令9号(いわゆるポツダム勅令)によって、婦女に売淫させた者を処罰することになりました。お上の方針が180度変わってしまったのです。

とはいえ、この勅令は公娼証制度を名目的に廃止するとしたものの玉ノ井のような赤線地帯は取り締まりの対象外としましたので、一切営業ができなくなったわけではありません。玉ノ井の私娼街は、最終的に1957(昭和32)年4月1日施行の売春防止法によって、とどめを刺されることになりました。

 今となっては、いろは通りの北側にも、戦後の玉ノ井の娼家の建物の痕跡は殆ど見当たりません。典型的な下町の商店街になっています。

 いろは通りを北側に入ったところに曹洞宗東清寺があり、その境内に玉ノ井稲荷があります。このお稲荷様、濹東綺譚では「わたくしはお雪の話からこの稲荷の縁日は月の二日と20日の両日であることや、縁日の晩は外ばかり賑やかで、路地の中は却って客足が少ないところから、窓の女たちは貧乏稲荷とよんでいる事などを思い出し」と書かれています。散々けなしながらも、戦前の玉ノ井の時代から「お雪」達にとって、身近な存在でした。狐の妖術にあやかってよいパトロンを掴もうとする魂胆からかどうかは知りませんが、花街にはお稲荷さんを信仰する女性が多かったようです。

 このお寺の境内には、大正天皇即位記念事業の一環として造られた大正道路開通記念碑があります。大正道路の開通こそ、戦前の玉ノ井出現のきっかけになったのでした。

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<大正道路開通記念碑>         <東清寺>

東清寺は、今ではモダンなお寺に生まれ変わっていて、貧乏な面影はありません。

娼家の建物の痕跡は殆ど見当たらないと言いましたが、一歩路地に入り込んでみると、僅かにその痕跡を認めることができます。

玉ノ井稲荷から路地を一寸歩くと、二軒ほど娼家の痕跡を残す建物が見つかりました。

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 とりわけ二軒目の建物は、2階建てアパート風で、娼家の痕跡が濃厚に残っています。カメラ片手に近づいて建物を食い入るように見つめていると、2階から何をしているのかといぶかる若い男性の声がしました。下町探訪で娼家の痕跡を訪ねていると弁解すると、予告なしの不躾な私の行動に寛大な応対をしてくれました。感謝。

 もう一つ魅力的な路地が在りましたが、そこには「この先は私有地です。写真撮影はお断り。」の立看が置いてありました。もはや「抜けられます。」の時代ではないことを思い知らされました。

娼家の痕跡からさらに歩みを進めると、啓運閣があります。

 いろは通りの交番の角を北に曲がって少々入ったところに、一階が駐車スペースになっている何の変哲もないビルがあり、その表札に小さく「日蓮宗啓運閣教会」とあり、木魚を叩く音も聞こえます。

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 左脇の細い路地を入ると、突如本堂と階段が出現しました。

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 しかし、その狭いこと狭いこと。参拝どころの話ではありません。階段の下はすぐ塀になっています。

 荷風は、1936(昭和11)年頃、寺じまの記を書いています。荷風は、京成バスの車掌に「玉ノ井の一番賑やかな処でおろしてくれ。」と頼んでおいたところ、降ろされた停留所は商店街のど真ん中の「玉の井車庫前」でした。

 当時の玉ノ井は大変な賑わいを見せていたようで、荷風はその賑わいぶりを、「あたりを見廻した・・・食料品、雑貨店などの中で、薬屋が多く、次は下駄屋と水菓子やが目につく。左側に玉の井館という寄席があって、浪花節語(なにわぶしかた)りの名を染めた幟が二、三流立っている。その隣に常夜灯と書いた灯(あかり)を両側に立て連ね・・・南無妙法蓮華経の赤い提灯(ちょうちん)をつるした堂と、満願稲荷(まんがんいなり)とかいた祠(ほこら)があって、法華堂の方からカチカチカチと木魚を叩く音が聞こえる。」と記しています。この満願稲荷(まんがんいなり)の所在地こそ、啓運閣です。

 それにしても、今の姿はあんまりです。教会の呼び鈴を押して、関係者からお話を聞いてみようと思いました。出てきたお坊さんは、この教会の担任で、お寺の一つ下の位の教会の責任者を担任と呼ぶと教わりました。

 担任によると、関東大震災の際、本所被覆廠跡に真っ先に駆け付けた日達上人によって開創され、玉ノ井で死んだ身寄りのない娼婦の霊も毎日供養しているとの由。

 本堂を正面から拝むにはどうしたらよいのか尋ねると、向かいの道路に面した建物の隙間からなら観れるはずとのご託宣。

 もと来た道をいろは通りまで戻り、建物の隙間を見付けてようやくの思いで撮影したのが次の写真です。

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 左側の写真だけ見ている分には何てことありませんが、先程の階段の写真と右側の自転車置き場の写真の両方を照合すると、本堂の置かれている厳しい現実がご理解いただけると思います。

 担任のお話では、満願稲荷は現在では撤去してしまっているとのこと。残念ですが、お稲荷さんも狭い所から解放されてほっとしているのかもしれません。

                                                  つづく