1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾の南西部深さ1300メートルの海底が長さ24キロ、幅2~5.5キロの広大な部分にわたって100メートル以上陥没しました。関東大震災の発生です。激震地は東京、神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨、茨城の一府六県に広がりました。

 震源地相模湾のお膝元神奈川県の被害はすさまじく、県下の家屋倒壊数は、99,578戸と全家屋数の36%強にも及びました。

 東京府の地震の程度は、相模湾沿いの神奈川県と比べると幾分弱かったものの、家屋倒壊数は36,806戸に及び、その東京の中でも地盤が軟弱だった下町の被害は大きなものでした。

 それでも、このような被害は、その後発生した火災による被害とは比べものになりませんでした。

 地震の発生時、各家庭では竈(かまど)や七輪に火を起こして昼食の支度を始め、町の飲食店では客の出入りが目につくようになっていました。そのため地震発生と同時に東京市内134ヶ所から火の手が上がりました。消防署、民間の消火活動によって57ヶ所は消し止められましたが、残った77ヶ所は延焼し、水道を至るところで破壊し、炎と炎が合流して58の大火系となって町を嘗め尽くしていきました。

 火災は9月1日正午から始まり、9月3日午前6時まで続き、東京市内では全戸数483,000戸中300,924戸が全焼となり、死者行方不明者は68,660人に達しました。

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東京市で最も凄惨な被災現場となったのが、本所区(現墨田区)横網町にあった陸軍省被服廠(ひふくしょう)の建物跡地でした。

 20,430坪の三角状の広大な敷地は、付近の人々には絶好の避難地と思え、地元の相生警察署員もそこに避難民を誘導しました。ところが、この被服廠跡で推定38,000人という関東大震災による東京市内の全死者の55%に当たる人々が亡くなってしまいました。下の写真は、死者の遺灰の山を写し取ったものです。

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陸軍被服廠の建物跡地だけで、何故それほど甚大な被害が発生してしまったのでしょうか?作家吉村昭の名作「関東大震災」から、その発生に至る経緯を辿ってみます。

吉村は、「背筋の冷えるのを感じた」として、「本所被服廠構内惨劇の一瞬前」の9月1日午後2時頃撮影と附記された篤志家渡辺金三の資料中の写真を目にした印象を次のように述べています。

「写真には人と家財に埋もれた構内が映し出されている。荷を高々と満載した大八車が随所にあり、その間隙に荷物と人がぎっしりとつめこまれている。洋傘や番傘が所々に見え、その下で人々が陽光を避けて座っている。カンカン帽をかぶった男たち、和服姿の少年少女、手ぬぐいを姉さんかぶりにした女たちが無数に見える。二万坪の構内に四万名の避難者が殺到していたことから考えて、一坪に二名の人間がいた計算になるが、その他馬車、大八車、家財等が運び込まれていたわけだから、立錐の余地もない状態であったのだ。この写真でも、人々の顔に不安の表情は薄い。カンカン帽をあみだにかぶった男の顔は平静であり、食事をしているらしく手を口に近づけている中年の婦人の顔も見える。」

そして生存者の証言から、「威勢の良い男たちは、向こう鉢巻で荷物の上に立ち、遠く立ち上る炎を『きれいだ燃えている、燃えている。』などと言って、はしゃいだりしていた。中には退屈しのぎに碁をやろうと、碁盤を持っている者を探す男もいたし、菓子やパンを食べて談笑している女たちもいた。・・・近くの食料品店では店を開いて食物を売っていた。また旗を立てて、カルピスや飲料水を売って歩く者もいて、構内には一種の賑わいがみちていたのだ。」と記しています。

吉村が見たという「本所被服廠構内惨劇の一瞬前」と附記された写真は残念ながら見つかりませんが、宮城前広場の群衆と題した報知新聞撮影のパノラマ写真が東京都復興記念館に残されています。人、布団、荷車で身動きできない状況が看てとれます。陸軍被服廠の建物跡も概ね似たような状況にあったものと思われます。

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危機感が殆ど感じられない被服廠跡に、午後四時頃から十~二十分位の間に突然、三回にわたって大旋風が襲い、群衆と持ち込んだ家財道具に火の粉をばらまき、空前の生き地獄をもたらしました。この大旋風は、火災旋風といわれ、火災域周辺に強風と火の粉をもたらすことが特徴とされています。被服廠に襲来した旋風は80m/sにも及ぶ猛烈なものでした。

吉村昭は、この火災旋風被害の状況を「大和久まつさん(当時18歳)は、眼前に老婆を背負った男がそのまま空中に飛び上がるのを見たし、荷を積んだ馬車が馬とともに回転しながら舞い上がるのも見た。」「旋風に巻き上げられた人々は、一か所に寄りかたまって墜落し、人の山ができた。そこにも炎が襲って、人の体は炭化したように焼けた。」と記しています。

別の文献には、被災者談として、「被服廠に襲来した旋風は、地を低く這い回り、人々は炎を飲んで倒れた。」「火傷もせず、無傷のまま助かったが、二、三日後胸が痛いと言って死んだ。」といった例も報告されており、炎を吸うことによる死亡例も多かったと思われます。

世界の災害史を調べてみても、数万人を焼死せしめた大規模の火災旋風の例は見当たらないと言われており、被服廠跡に襲来した旋風が私たちの想像を絶するものだったことは間違いありません。

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震災画家として知られた徳永柳洲の火災旋風を描いた絵で、そのすさまじさを思い描いてください。      つづく               つづく