江東橋を経て大横川親水公園に入ります。江戸幕府は、明暦の大火(1657年)からの復興に際して、火除け地等の確保のため家屋の本所地域への移転を図り、河川を掘削し、土地の整備を行いました。この時掘られたのが横川です。丁度私が両国高校に通学していた1965年(昭和40年)、大島川と繋がって大横川となりましたが、1981年(昭和56年)埋立てられて、1993年(平成5年)大横川親水公園が完成しました。
第8回「法恩寺橋から竪川へ」で引用した通り、この横川界隈は、両岸には船問屋が並び人の往来も賑やかなところだったようですが、今では緑のオアシスに生まれ変わっております。居眠り磐音もびっくりと言ったところでしょうか。

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大横川親水公園をぶらぶら散歩しながら北上すること20分。紅葉橋の西側数十メートルのところに能勢妙見堂があります。
勝海舟9歳の時、男の急所を犬に噛まれて生死の境を彷徨ったことがありました。その折、父の子吉は、この妙見堂に徹夜の裸詣でをし、「あのまませがれが死ぬようなことがあったら、やがて小吉もあの世に行き、諸神諸仏の御前へ罷り出て、妙見菩薩というは飛んだいかさまだ・・・人を憐れみ、苦難を助け、いささかの慈しみも遊ばさぬどころか、徒に信心者の供養を受けて、安閑と居眠りをしている奴だと、洗い浚い申し上げるぞ」(子母沢寛の名作「父子鷹」より)と喧嘩腰の祈願をしました。その甲斐あって70日後海舟が全快したが、小吉は、それは妙見様のお蔭と感謝し、死ぬまで妙見様のためあれこれ尽くしたとの逸話で有名です。
とても小さなお寺で、狭い庭に沢山の草木が植栽され、隅っこに海舟の胸像がちょこんと置かれています。狭苦しい気取りのない雰囲気は、下町っ子海舟の育った貧しい子供時代を彷彿とさせてくれます。

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能勢妙見堂にお参りした後、春日通を西行して20分、隅田川に架かる黄緑色に塗られた厩橋へ到着します。厩橋は、隅田川西岸にあった蔵前の米蔵の荷駄馬用の御厩にちなんで名付けられました。

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次回は隅田川を遡ります。