熊野神社の南へ徒歩数分の中川縁に南蔵院があります。真言宗豊山派の寺院で五方山立石寺と号します。五角の地に熊野神社を勧請して五方山と名付けたとの謂れからも分かる通り、熊野神社の別当寺(神仏習合が普通であった江戸時代以前、神社を管理するために置かれた寺)として長保年間(999~1004)に創建されました。五方山が五芒星に通じていることは明らかです。

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立石様周辺は既に古墳時代から拓けており、南蔵院の裏手、立石様の直ぐそばに六世紀後半の「南蔵院裏古墳」がありました。「ありました」と言わざるを得ないのは、残念ながら明治時代に削りとられてしまったからです。もし残されていたら学術、観光の両面で大変な価値があったことは違いありません。
それでも「南蔵院裏古墳」の所在地はほぼ確定されております。先ほど掲示した南蔵院の写真の左奥に見えるマンション建設の際、その敷地から埴輪方が多数発掘したからです。今は古墳が存在した形跡を偲ぶものとてありませんが、大正時代には未だその跡地を特定することができたようです。

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この写真は大正時代のものです。写真奥が南蔵院で、手前の水田と南蔵院の間の若干高くなっていて3人の人が立っている辺りが古墳跡とのことです。古墳跡は跡形なくなってしまいましたが、古墳を削平した際発掘された埴輪等は、南蔵院裏古墳出土遺物として南蔵院に保管されています。

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さて、立石様との関わりです。立石様の根有り石が鋸山の海岸部に産する凝灰岩であり、古墳時代後期の古墳石室の石材として運び込まれたことは既に述べました。要するに南蔵院裏古墳の石室の石材と同じものが使われていたのです。
6世紀という古墳時代に鋸山から凝灰岩を運び込むことは大変な事業であったと思われます。古墳に埋葬された主 はそれを可能にするだけの大きな権力を持っている豪族だったのでしょう。1500年もの時を超えて、歴史の表舞台に出てきていない古代の歴史に思いを致すのも楽しいものです。
10年程前、仕事で立石所在の土地売買にかかわった際、当該土地が古墳跡地であったことが判明し、「こんなところに古墳があったのか?」と吃驚したことがありました。ロマンを掻き立てる古代遺跡が結構身近なところに存在するものです。問題はそれがきちんと保存できていないことにあるのでしょう。南蔵院裏古墳が失われてしまったことは残念でなりません。