4月30日、クラクフからアウシュビッツに向かいました。
途中、映画「シンドラーのリスト」で有名なシンドラーの工場を見学しました。
シンドラーの工場
<シンドラーの工場>

いわゆるアウシュビッツは、2か所の収容所に分かれています。
はじめに造られた第一収容所は、オシフィエンチム市(ドイツ語ではアウシュビッツになります)に、第二収容所はブジェジンカ村(ドイツ語ではビルケナウになります)にありますが、見学者用のメイン施設はアウシュビッツにあります。
アウシュビッツに足を踏み入れてすぐのところに、有名な「ARBEIT MACHAT FREI」(働けば自由になる)と掲げられた小さな門があります。
門
<門>

その先に何の変哲もない建物があり、その建物の前にユダヤ人音楽隊の写真が掲示されています。
この音楽隊は、収容者らを心穏やかにさせて、処分しやすくするための役割は与えられており、ユダヤ人収容者で構成されていました。
彼ら隊員は優遇され、強制労働を免れていたのです。
音楽隊演奏場跡
<音楽隊演奏場跡>
演奏風景写真
<演奏風景写真>

そのまま歩みを続けると、赤レンガ建物群の中へ入っていきます。
70年以上の歳月が経って、外見だけでは大虐殺の現場であったとの実感は持てません。
涼やかな木立に囲まれた学園寮といった佇まいです。
しかし、建物に入ってみると骨と皮だけになった収容者の写真、収容者の寝床跡、遺品、使用済みの毒ガス缶等、ここが収容所であったことを示す数々の品々が展示されています。
レンガ造り建物群
<レンガ造り建物群>
収容者の写真
<収容者の写真>
収容者の遺品
<収容者の遺品>
収容者の寝床
<収容者の寝床>

また、建物の外に出ると、監視塔、処刑場跡など、ここがユダヤ人をはじめとする政治犯、ロマ(ジプシー)、精神障害者、捕虜等の収容所であったことを物語る痕跡をあちこちで目にすることができます。
監視塔
<監視塔>
処刑場跡
<処刑場跡>

1940年5月20日のアウシュビッツの開所から1945年1月27日の開放までにアウシュビッツとビルケナウで殺戮された人の数は、110万人とも400万人ともいわれており、碑文には150万人と記されています。
どちらにしても途方もない数の人間が、ナチスの親衛隊によって、恰も牛や豚が「と殺場」で殺されていくようにして、殺害されていったのです。
この殺人工場の一角に、小綺麗なアウシュビッツ収容所長ルドルフ・ヘス宅跡が残されています。
ルドルフ・ヘス宅跡
<ルドルフ・ヘス宅跡>

ルドルフ・ヘスと言えば、ナチスのナンバー2が有名ですが、こちらはもう一人のルドルフ・ヘスです。
ごく普通の家庭的な男だったともいわれ、アウシュビッツをユダヤ人抹殺センターにしろとの命令を受けた時は、「この命令には異常なものがあった。」と、考えるだけの感覚は持ち合わせていたようです。

それにもかかわらず、ヘスは、「命令は実行しなければならない」と、粛々とお役人的に殺人業務を推し進めていきました。
ファシズムの嵐のような流れの中で、思考停止し、流れに身を任せてしまったのでしょう。
このような男は、何時の時代にもどのような国にでもいそうです。
心しなければいけない、と思います。
戦後ヘスは、アウシュビッツ内に設置された刑場にて絞首刑となりました。
ヘスの刑場
<ヘスの刑場>

アウシュビッツを後にして、車で10分程度のビルケナウに向かいました。
ビルケナウは、総面積1.75㎢、東京ドーム37個分の広大な収容所です。
その正面を鉄道の引き込み線が走る「死の門」が印象的で、写真などでご覧になった方も多いかもしれません。
映画「シンドラーのリスト」にも登場しました。
死の門
<死の門>

「死の門」を入ると広大な土地に収容所の建物が列をなしています。
急ごしらえであったせいでもあるでしょうか、赤レンガのアウシュビッツの建物群と比べるとみすぼらしい造りになっていて、いかにも収容所という雰囲気で一杯です。
このバラックのような建物で冬を越すことは容易ではなかっただろうと実感できる、見るからにみすぼらしい建物群でした。
ビルケナウの収容所
<ビルケナウの収容所>