北斎は、その生涯に30回改名しています。自らの意思で改名していることが多いのですが、破門されて改名せざるを得なかったと思われる場合もありました。
1794年(寛政6年)、北斎35歳の時勝川派から破門されたようで、それまで15年にわたって名乗っていた勝川春朗の名前を使えなくなり、以後、これまで100点以上描いていた役者絵の制作をぷっつり止めてしまいました。

そして、1975年(寛政7年)に俵屋宗理を襲名することになりました。

これは俵屋宗達を祖と古典的な大和絵や狩野派の画風に身を投じたことを意味し、北斎にとって絵師としての一大転機になったことは間違いありません。

丁度そんな北斎の活動の空白時期であった寛政6年春、東洲斎写楽がすい星のごとく登場してきたのです。
ところが写楽は、150点に及ぶ役者の肖像の傑作を描いて、10か月後には忽然と姿を消してしまいました。
写楽とはいったい何者か?は、美術史上の大きな謎として現在でも20以上の説が唱えられています。

この中で、北斎の空白期に丁度写楽が活動していることに着目するのが、「写楽=北斎」説です。

北斎といえばすぐ富嶽三六景頭に浮かぶ位、北斎は風景画家と思われてきました。
富嶽36景
<富嶽36景>

それに対し、写楽は「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」に代表される役者絵専門の絵師です。
三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛
<三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛>

北斎と写楽と同一人物であったと言われてもピンとこないかもしれませんが、写楽=北斎説はなかなか魅力があります。
いささか脱線してしまいますが、写楽=北斎説の論拠を見ていきたいと思います。
写楽=北斎説に対して直ちに生じるのは、俵屋宗理を襲名したのだからわざわざ写楽を名乗る必要がないのではないか?という疑問です。

この疑問に対し、写楽=北斎説は、次のように答えます。
当時の幕府は、贅沢本を禁書没収処分にしており、春朗のパトロンであった蔦屋重三郎も、歌麿の美人大首絵を雲母摺で出版してにらまれていました。
そこで、蔦屋重三郎は北斎に写楽という変名を使って贅沢な雲母摺の役者絵を作らせたと。
しかし、このような論拠だけで写楽=北斎説を採用することはできません。
写楽と北斎が同一人物であれば、両者の絵に共通点があるはずです。
その点を吟味しないのでは、写楽=北斎説も説得力を持ちません。
写楽=北斎説を唱える田中英道教授は、こう述べます。
春朗の役者絵と写楽の役者絵を比べると、一見違いがありそうだが、春朗は、役者を類型的に描く「見立」の方法で描き、写楽は実際の歌舞伎を見て描く「中見」で描いたから描写に違いが出た。
しかし、両者の役者絵には共通点がたくさん見られるのだ。

その一つを見てみます。
写楽の「三代目市川高麗蔵の弥陀次郎、実は相模次郎」と春朗(北斎)の「市川鰕蔵の山賊、実は文覚上人」です。
写楽と北斎
左写楽<三代目市川高麗蔵の弥陀次郎、実は相模次郎>
右北斎<市川鰕蔵の山賊、実は文覚上人>

両者を見比べると左右が逆になっていますが、構図がきわめて似ているのです。
もっとも、写楽の方が明らかに写実性があります。
田中英道教授は、これは「中見」と「見立」の違いからくるもので、絵画としての価値の差につながるものではないと言います。

また、写楽以前の浮世絵は、それぞれの流派を踏襲していて個性的な描き方はしていません。
基本的に無表情で、喜怒哀楽は浮かび上がらないのです。
春朗こと北斎の浮世絵もしかりと言わざるを得ません。

しかるに、写楽は、このような浮世絵の表現方法を根本から覆してしまったのです。
造作の大きすぎる鼻や口などを誇張して描き、頬のたわみ、額の皺まで辛らつに描きました。
表情豊かな超個性的表現が見る人を引き付けて止みません。
春朗こと北斎の無表情な浮世絵と豊かな表情の写楽の浮世絵を見比べると誰しも二人が同一人だなんてあり得ないと思ってしまいます。

しかし、北斎漫画を見ると、北斎が実に豊かな人間の表情を表現する術を身に着けていたことがわかります。
そのような北斎ですから、写楽としてこれまでの常識を覆す試みをした可能性も十分あり得るのではないでしょうか。

今、北斎と写楽の役者絵を見比べましたが、これだけでは写楽=北斎説はまだ説得力を持ちません。
田中英道教授は、二人の武者絵を見比べることにより、写楽=北斎説はより説得力を持つといいます。
写楽の「紅葉狩」の平維盛と鬼女の絵と北斎の「和漢絵本魁」中の武者と鬼女の絵および「絵本忠経」中の孔子の顔が、極めて似ているのです。
紅葉狩
<紅葉狩>
絵本忠経
左上<絵本忠経> <和漢絵本魁>

また写楽の「曽我五郎と御所五郎丸」と北斎の「北斎画式」の相撲の絵は、毛深い腕や脛、足の筋肉や横顔の描写が別の作家とは思えないほど似ています。
曽我五郎と御所五郎丸
<曽我五郎と御所五郎丸>
北斎画式の相撲の絵等
<北斎画式の相撲の絵等>

田中英道教授は、役者絵が「中見」つまり実見の似顔絵であるのに対し、武者絵は歴史を題材にすることにより、絵師本来の描き方がおのずからあらわれてくるので、写楽と北斎の接点をより見出しやすいのだといいます。
専門家の先生方のご高説を述べてきましたが、専門家のお話に加えて、些か通俗的な「あほくさい」「しゃらくさい」のお話も気になります。
北斎は、その絵に隠し絵として富士山を描いたり、〇、△、□を使った奇抜な構図を採用したりと、遊び心を随所に散りばめています。
また、北斎は、自分のことを「尻くさい」「へくさい」と記した手紙を書くなど駄洒落も大好きでした。
そのような北斎でしたから、「北斎」の画号も、実は「あほくさい」からとったのではないか?と大真面目に言われたりしています。
他方「写楽」の画号も、かねてより「しゃらくさい」から命名したのではないか?と疑われているのです。
写楽=北斎説をとれば、「あほくさい」と「しゃらくさい」は、いずれも北斎の、駄洒落ないし遊び心から生まれたものとして、私たちの胸に無理なくストンと落ちてくる気がするのですが、どうでしょうか。

果たして写楽は北斎なのかの問題は、奥が深くて簡単に回答に辿り着ける問題ではありません。それは重々知りながら、北斎だけでなく写楽まで、下町の輝ける星だったらよかったのにとの思い込みから写楽=北斎説を取り上げてみました。
お許しください。

脱線のついでに「北斎漫画」にも触れてみます。
「北斎漫画」は、絵を学ぶ人のための教科書として出版されましたが、多くの人々に愛され、名古屋の殿様のお墓の埋葬品から出てきたりもしています。
その人気は日本国内にとどまらず、19世紀後半にヨーロッパで巻き起こったジャポニズム旋風の引き金を引いた、とまで言われています。

ここで描かれているのは、市井の人々の姿や風俗・日常生活、森羅万象としての動植物・名所・名勝、奇想天外な北斎の想像の世界・故事など、多岐にわたります。

まず庶民の様々な表情を描いた漫画を取り上げてみます。
庶民の姿
庶民の姿をデフォルメしながら、ユーモラスに描き、「こんな人自分の周りにもいる」と思わず膝を打ちたくなるようなリアリテイが溢れます。
それとともに、ありふれた人々を愛する感性を感じさせます。
これらの点は、写楽の役者絵のデフォルメされたリアリテイ、端役まで取り上げた感性に通じるのではないでしょうか。

次に、様々な職にある人々の日常の姿をリアルに描いた漫画を取り上げます。
その内面まで活写しています。
日常の姿
これらは漫画と銘打っていますが、生態観察スケッチというべきでしょうか?とにかくその人間味あふれる描写には誰しも心惹かれるのではないでしょうか。
「北斎」に関心を持つ方々が一人でも多くなることを願っています。