今回は松尾芭蕉を取り上げます。芭蕉は、1644年(寛永21年)、伊賀上野赤坂(今の三重県上野市)で郷士の身分を失っていた農民の子として生まれました。

 1662年(寛文2年)、芭蕉19歳の頃より藤堂藩侍大将藤堂良精の嫡子良忠(俳号蝉吟)に仕え、宗房と名乗りました。そして蝉吟とともに貞門派の季吟に師事し、俳諧に親しみました。

 ところが1666年(寛文6年)4月25日、蝉吟が亡くなって、士官の道は断たれてしまいました。

 1672年(寛文12年)、数え年29歳(満年齢28歳)となった芭蕉は、自選の三十番発句合「貝あわせ」を携えて江戸に向かいました。とはいえ、伊賀上野の俳句仲間で多少名を知られた程度で、江戸でいきなり俳諧師として身をたてられたはずもありません。

 江戸に出てきて、4年程はどこに住処を定め、どのようにして生活していたのか定かでありません。

 本所(現在の墨田区東駒形)に、芭蕉を山号、芭蕉が初めて得た俳号桃青を寺名に持つ芭蕉山桃青寺というこじんまりとしたお寺があります。

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                 <桃青寺>

もともと1626年(寛永3年)起立された当時は、定林院と称していました。

このお寺には、芭蕉が住職の黙宗和尚に随従して数年間同寺に草鞋を脱いだとの伝承があり、江戸に出て数年このお寺に住まいしていた可能性があります。

定林院は、山口素堂以下の葛飾蕉門が、俳諧活動の拠点にしていいたお寺でしたので、かれらがその活動拠点を蕉門の聖地としようとして芭蕉山桃青寺と名付けたというのが、寺名の由来のようです。かって境内には1743年(寛保3年)建立の芭蕉堂があり、現在も芭蕉、西行、山口素堂以下の葛飾蕉門の木造が安置されています。

こんな芭蕉も、1676年(延宝4年)頃には日本橋大舟町や小田原町の借家に住み始めていたようです。芭蕉のような借家人は当時店子と呼ばれ、店子が住んでいた長屋は、裏店と言われていました。

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        <裏店>

この絵でも分かるように、四方を表店に囲まれた方二十間の空き地に建てられた建物で、中二階造りや平屋の長屋が一般的で、通い小店員、職人、遊芸人、日雇い等中下層民の居住地になっていました。店子層は、江戸町民の大半を占め、その特徴は移動率の高さ、他国出身者の多さ、貧困層の多さにあると言われています。

1680年(延宝8年)の俳諧師住所録には、「小田原町 小沢太郎兵衛店 松尾桃青」と記されておりますので、芭蕉は小沢太郎兵衛店の店子だったようです。

小沢太郎兵衛は、日本橋大舟町の名主で、芭蕉を俳諧の師と仰ぎ、芭蕉に「卜尺」との俳号を名付けて貰っていました。「卜尺」という俳号の由来は、「小沢」という字の左部分を省略したもので、芭蕉らしく機知に富んでいます。

とにかく家主とのこのような関係からすると、芭蕉は裏店に住んでいたとはいえ、小沢太郎兵衛との関係は、普通の店子と家主と比べると、対等で親密な関係にあったようです。

日本橋小田原町は、今の日本橋三越前の中央通りの反対側、日本橋室町一丁目辺りにあり、そこの「鮒佐」という佃煮屋の老舗の店頭に芭蕉の「発句なり 松尾桃青 旅の宿」の句碑があります。

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                <芭蕉句碑>

桃青の看板を掲げて迎えた春の意気軒高な様が見て取れます。この辺が芭蕉の裏店のあった場所のようです。

                      続く