地下鉄東西線東陽町駅前四つ目通りと永代通りの交わる交差点の西側に、東陽公園があります。何の変哲もない小さな公園です。この公園、そのすぐ北側の東陽小学校、および、そのまた北側の深川高校一帯は、東京大空襲で数多くの犠牲者を出した地域でした。

当時43歳の運送店主だった野中彦蔵さんは、東陽公園の空襲当時と直後の様子を、次のように生々しく書き記しています。

「東陽公園・・・の石べいの先の四つ辻は、猛ふぶきのような火の粉の中で狂乱したような人びとの姿でいっぱいだった。その先の小さな橋を渡ると砂町で、広い空地が広がっているはずだが、煙と火で視界はとざされ、道路をはう火の前に行く手を閉ざされた人びとは、恐怖に顔を引きつらせて立ちすくんでいた。・・・私の目の前でねんねこ姿の母親の背に火がついて、おぶっている赤ちゃんまで燃え上がりそうなので、ねんねこをむしりとった。その私の背中も焦げそうだ。・・・目の前に燃えている道を突っ切って向こう側へ渡る外に生きられる方法はなかった。・・・前夜の四つ辻へつくと、そこはもう数知れぬ死体が横たわっていた。東陽公園の石べいには五、六人の男女が寄りかかって、眼をつぶっている。この人たちは、逃げ遅れて身体を休めているのだろうと、そばに寄ってみると、これも全部絶命した人たちだった。」

(東京大空襲・戦災史第1巻504~5ページ~)

警防団からの「東陽公園へ避難せよ」との命令に従って、こぞって東陽公園に避難した結果、公園内には死体の山が築かれ、670体もの遺体が公園内に仮埋葬されることになってしまいました。

   あれから75年。公園には、空襲の痕跡は何一つ残されていません。悲惨な歴史を知る由もない子連れのお母さん方が、談笑している風景が目に入るだけです。

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  東陽公園から東陽町駅前交差点に戻り、北側に歩いて2~3分の距離に、深川高等女学校(現都立深川高校)がありました。

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  この学校で教師をしていた森田繁治さんの手記を、一部要約の上紹介させていただきます。森田さんは、空襲当時49歳、学校の宿直責任者でした。

森田さんは、駆け付けた避難者に玄関を開いて「体育館へ、体育館へ」と誘導し、「講堂に火が入りました。」との報告を受けるや「講堂の入り口を閉めろ。」と講堂だけで火を止めよと命じました。しかし、火の粉が校舎に吹き付け、衛生室がやられる。作法室がやられる。講堂を見ると窓という窓から一斉に火を噴きだしている。・・・いよいよ最後だと考えて、「私はお勅語を守って、窓から出ていきます。皆さんも安全なところを探して、逃げてください。」と叫びながら避難したと言います。

翌朝、森田さんは、学校に帰って構内を一巡し、「体育館内外の焼死体を見て、私は容易に体育館に近づくことができなかった。体育館に誘導したのは私ではないか。自責と悔恨が胸をかきむしる。手を合わせてわびる。」と、自らを責めています。

森田さんの在任当時、深川高女は学校工場になっていて、飛行機の補助タンクを作っていたそうです。「生徒たちは竹を組み立て、和紙を張り、塗装して仕上げた。7月に作業を始め、一〇月に五〇〇組を搬出したときには、万歳を叫んで喜んだ。」(東京大空襲・戦災史第1巻499ページ~)とも記しています。

竹製のタンクは当然のことながら模型飛行機用ではありません。戦闘機用です。生徒たちの努力には、頭が下がりますが、ここまで馬鹿げた作業を生徒たちに強いていた軍指導部の非科学的精神には、あきれて言葉もありません。

深川高校敷地の北側に置かれた東京大空襲戦災殉難者慰霊碑には、当直職員2名殉死、1名行方不明、校舎内外の遺体約100名と記されています。

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  大空襲の日、334機のB29が弾倉一杯に積んだ焼夷弾は、約2,000トンでした。これだけ大量の焼夷弾が、最も新しく、かつ、恐ろしい爆撃方法「絨毯爆撃あるいは飽和爆撃方式」によって、東京の下町の住民に向けてばらまかれたのです。

  この方式は、目標地区を縦6.4キロ、4.8キロの矩形に定め、先導中隊が33メートル間隔に一列に並んでナパーム性油脂焼夷弾を降らして準備火災を起こさせ火の壁を作ります。次に、本隊が火の壁の中へ低空でM69型といわれる普通の焼夷弾を降らしていきました。その数20万発という膨大な量であり、もし水でも掛けようものなら、かえって火焔は散乱するという厄介極まりないものでした。

中でも「モロトフのパンかご」と呼ばれた大型焼夷弾は、親爆弾に38本または72本の小型焼夷筒が納められているという恐怖の焼夷弾でした。空中で親爆弾が分解し、自動発火した小型焼夷筒が逃げまどう下町の人たちの頭上から火焔をまき散らしたのです。

  下の写真は、「モロトフのパンかご」の模型です。

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  当時隣組に配られていた「時局濠空必携」には、「焼夷弾が落ちてきたら最初の一分間が最も大切。どんな焼夷弾でも水を十分周囲の可燃物に注入して延焼を防止することが第一」とあります。焼夷弾は一個ずつ投下されるのでバケツリレーで退治するとの前提で書かれています。

当時の日米の焼夷弾の性能には、天と地ほどの差があったことを思い知らされます。何も知らされていなかった国民が日々バケツリレー訓練に勤しんでいたことを笑うことはできませんが、戦争指導者たちまでアメリカの焼夷弾の威力が分かっていなかったのでしょうか?それとも「不都合な真実」には目をつぶって知らぬの半兵衛を決め込んでいただけなのでしょうか?

                                                                           つづく