深川高校から四ツ目通りを北上します。その途上にある江東区役所の正面に1982(昭和57)年3月10日、「希い」と記された母子像が生まれました。

 当時都立第三商業高校の美術教師であった横山文夫の作品です。子どもを守ろうとする母親の逞しさが伝わってきます。

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 区役所からもう少々北へ。豊住橋の下を流れる仙台堀川は、美しい仙台堀川公園になっています。この辺は江東ゼロメートル地帯の中心部です。川より低い地域が出来上がり、護岸壁をどんどんかさ上げする必要に迫られていました。それを回避するため扇橋に水をせき止める閘門を設け、排水機場から常時排水して水位を下げて、そして出来上がったのがこの公園です。窮余の策だったわけですが、厄介者の川がまるで手品を使ったように、美しい公園に生まれ変わりました。

 魔術師のお名前は存じませんが、その腕前には惜しみない拍手を送りたいと思います。

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 水と緑に囲まれた公園を東側に、しばし、散歩を楽しみます。春には桜が咲き乱れる格好の散歩道です。日頃から下町には緑が少ないと不満を漏らしている私も、ここでは愚痴の代わりに笑みがこぼれてしまいます。松島橋を越え、小名木川貨物線の下を越えたところで公園を離れ、線路沿いに北上します。すぐに妙久寺が見えてきます。

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 地理的には、清洲橋通りを境川交差点からやや西に入った場所になります。

 その境内には、戦災殉難者供養碑があります。

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 石田波郷の句碑「繁縷(はこべら)や 焦土の色の 雀ども」もあります。

 土色の焦土の中で白いはこべらに希望を託す庶民の気持ちが伝わってきます。

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 波郷は、中村草田男、加藤楸邨とともに昭和の俳句を発展させた一人です。波郷は、1946(昭和21)年3月10日から1957(昭和32)年3月27日まで11年間、妙久寺の隣で暮らしていました。妻の父で瓦屋を営む吉田仙七方での居候生活で、戦争の廃墟が広がる中で結核の療養生活をしながらの貧乏生活でもありました。

 下の写真は、波郷の居宅跡です。今も波郷の妻の実家吉田家の方々がお住まいになられているとの由。とても貧乏生活を営んでいたとは思えない立派な建物で、江東区の石田波郷宅跡との案内板まで設置されているのですが、波郷が住んでいた頃の建物ではないそうです。

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 砂町への移転は、必ずしも波郷の本意ではなかったようです。それでも、波郷はここでの生活から、「焦土俳句」と呼ばれた一群の俳句を生み出しました。

 先の句碑に刻まれた俳句は、その代表作の一つです。

 波郷の息子石田修大さんは、「わが父波郷」(白水ブックス)の中で、波郷が住処とした一帯について、一面焼け野原で隣の志演神社は社殿も社務所もなく、妙久寺は山門が礎石を残して焼け落ち、墓地には焼けた墓石が転がり、骨壺がのぞいていた、と焦土のありさまを語っています。

 そこには、「祖父はさっそく神社の敷地の一部を借り、麦やじゃがいもを植え始めた。数年後、とりわけ生育の良い一角を掘り返すと、下から三十人ばかりの白骨が折り重なった防空壕が現れた。私たちは何も知らずに、そこに植えたじゃがいもを食べて育ったのである。」と息をのむような記述まであり、妙久寺周辺が空襲被害のど真ん中であったことを思い知らせてくれます。

 居宅跡の近くの小名木川小学校の校門前に、焦土俳句「百方の焼けて年逝く 小名木川」の句碑もあります。

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 石田修大さんは、「砂町を愛し、人々に親しみを感じていたのは、祖父のもっていた飾らない人柄に惹かれたことも預かっていたのではないだろうか。」と、波郷が吉田仙七の飾らない人柄に惹かれ、砂町の暮らしに愛着を覚えるようになっていたことを語っています。

1957(昭和32)年3月19日から翌年2月3日まで読売新聞江東版に江東歳時記を連載しました。これは、波郷が、北は足立区舎人から南は江戸川区葛西海岸まで江東五区(足立、墨田、葛飾、江東、江戸川)を訪ね歩き、季節の風物、行事、産業、人物を俳句、写真と短文で紹介する連載でした。

 その中に、「秋雨や減りに減りたる荷馬車馬」の句があります。かって賑わった波郷の住居近辺の荷馬車屋を取り上げた句です。

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 この歳時記、今では昭和30年代初めの下町の風俗を知る貴重な資料となっています。

 結核患者にとってきれいな空気と日光に恵まれた環境が望ましいことは、言うまでもありません。波郷が1957(昭和32)年3月28日、復興を急ぐ煤煙の町砂町を離れ、現在の練馬区高野台に引っ越したのは、やむを得ない選択だったと思われます。

                                          つづく