それでは、第一次国府台合戦の古戦場の跡を見て回りましょう。

 合戦当時、国府台とは、南の里見公園(京成国府台駅付近)から北の相模台城(松戸駅東側の松戸中央公園付近)まで含めた地域一帯をいいました。この一帯は、里見公園に布陣した里見氏側の軍勢と、松戸城(戸定が丘公園)に上陸した北条氏側の軍勢との、激戦の地でした。

 まず相模台城跡地に向かいます。

 JR亀有駅からJR松戸駅まで電車に乗ります。

 松戸駅東口を降りてイトーヨーカドーに向かい、この建物のエスカレーターに乗って5階の最上階まで行くと、そこが相模台です。有難いことにイトーヨーカドーのエスカレーターが相模台へ登るための通路にもなっています。最上階を出ると、そこは松戸中央公園です。この公園を真っすぐに横切ると、千葉地裁松戸支部の建物にぶつかります。

 この公園へ入らず左手に曲がると、聖徳大学のキャンパスです。

 聖徳大学構内に、相模台合戦の碑が残されています。

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    <相模台合戦の碑>

 戦に先立ち里見義堯は、「北条方の江戸川渡河中を攻撃すべし。」との献策をしますが、自らの家柄と武勇を過信していた小弓公方足利義明は、「本気で俺に弓引ける者はいない。」と、それを採り入れませんでした。

 合戦は、里見軍が参戦する暇もなく足利義明が戦死して小弓軍は崩壊、里見軍は殆ど無傷で戦線から離脱するという経過を辿り、北条軍の大勝利に終わりました。

 「兵どもが夢の跡」に思いを馳せながら、女子大生が溢れる聖徳大学構内から相模台の丘を下って1キロほど常磐線に沿って江戸川方向に向かうと、松戸城跡地に出ます。この城跡は、明治に入って徳川慶喜の異母弟徳川昭武の戸定邸となり、現在は戸定が丘歴史公園になっています。

 庭から北条軍が攻め上ってきた江戸川方面を見下ろします。なかなかの絶景です。「ここから北条軍が攻め上ってきたのだ。」と、往時の戦の様子を思い浮かべてみると、歴史マニアならずとも胸躍るものがあります。

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       <正門>           <江戸川を望む>

 訪れたときは、丁度桜が満開で、枝垂桜が見事でした。

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      <枝垂桜>

 合戦の際、葛西城は、北条氏の前線基地になり、ここから相模台へ向けて出陣しました。

 北条氏と戦った里見氏は、里見八犬伝で有名ですが、小弓公方という名前は聞いたことがないという方が多いと思います。足利義明の城が小弓にあったため小弓公方と呼ばれました。

 小弓城の所在地は、現在の千葉市緑区のおゆみ野ニュータウン近辺で、現在でも生実(おゆみ)町、おゆみ野といった地名が残されています。

 第一次国府台合戦に勝利した北条氏綱は、古河公方足利晴氏により、関東管領に任命されました。関東管領は山内上杉氏の家職でしたので、これは、関東管領が併存するようになったこと、北条氏が公方家に次ぐ政治的地位を手中にしたことを意味します。また、北条氏綱は、1539(天文8)年、古河公方を自分の娘と結婚させました。

 4年後の1543(天文12)年、娘の芳春院殿が梅千代王丸を生むと、北条氏は足利家の御一家としての地位まで得ることになりました。

 北条氏初代早雲は、あまり高くない身分から戦国大名に成り上がったため、関東管領上杉氏からは、「他国の凶徒」とみなされ、ダーテイなイメージが纏わりついたままでした。二代目北条氏綱は、このようなイメージを振り払い、関東の政治秩序の中で明確な地位を獲得すべく、あらゆる手段を尽くしました。

 鎌倉時代の執権北条氏に連なる系図を創作し、姓を早雲時代の伊勢氏から北条氏に変え、家紋も執権北条氏の「三つ鱗」に改めました。寺社再建にも取り組み、その集大成として1532(天文1)年には鶴岡八幡宮の再建に着手し、1540(天文9)年、上宮正殿の正遷宮式を迎えました。

 このような涙ぐましい努力を重ねて、北条氏綱は、関東の雄にのし上がっていったのです。

 古河公方足利晴氏は、遅くとも1552(天文21)年までには、妻と梅千代王丸とともに葛西城に入部しており、葛西城は古河公方の御座所になっていました。

とはいえ、足利晴氏は、北条氏の力を借りて公方の座を守ったにすぎませんので、北条氏の意向には逆らえません。同年12月12日、梅千代王丸への家督相続と自らの隠居を迫られてしまいました。

 家督移譲に不満を抱いた足利晴氏は、1554(天文23)年、葛西城を脱出して、古河城に立て籠もり北条氏に反旗を翻しました(天文事件)が、この事件は、北条氏が軍事行動をとるまでもなく鎮圧されてしまいました。

以来、足利晴氏は、幽閉の身となって政治生命を絶たれ、1560(永禄3)年、失意のうちに亡くなりました。

 1555(弘治元)年11月、葛西城において、北条氏三代目氏康臨席のもと、梅千代王丸の元服式が行われ、梅千代王丸は、13代将軍足利義輝から義の字を賜与されて、足利義氏を名乗ることになりました。その時の様子を記録した元服次第が残されています。

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<足利義氏像:出典Wikipedia>    <元服式次第>

 葛西城は、1552(天文21)年から1558(永禄元)年までは古河公方が在城していました。短い期間ではありますが、関東における将軍ともいうべき足利公方の御座所が葛西城に置かれていたことは、もっと知られてよいのではないでしょうか。

                                                つづく