足利義氏は、永禄元年(1558年)7月頃、関宿へ移座しました。

 古河公方の重臣梁田氏をはじめとする公方家臣は、かねてより足利義氏の古河移座を求めていました。しかし、北条氏康は、梁田氏の居城関宿城が「無双の名地」と言われた要衝の地であったため、梁田氏を古河城主に移して、足利義氏の関宿への移座を強力に推し進めたのです。

 関宿は、江戸川と利根川の分岐点として有名です。関宿まで足を運んでみましたが、分岐点まで足を踏み入れることはできません。分岐点を巡る高瀬舟さかい丸もコロナの影響で当分運航見合わせということで、残念ながら分岐点を自分の目に焼き付けることはできませんでした。やむを得ず、Wikipediaから採取した写真を掲示します。

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 関宿が分岐点と言いましたが、江戸川と利根川が分岐するようになったのは、江戸時代に入って行われた利根川東遷事業によってであり、1654年のことでした。

 ですから、足利義氏の関宿への移座の頃は、江戸川と利根川の分岐点ではなかったのですが、当時も、関宿は大型河川や中小の湖沼を利用した水上交通の要衝だったのです。

 足利義氏は、関宿へ移座したものの梁田氏の離反を受け下総小金城へ移り、さらに上総佐貫城、鎌倉と転々とすることになります。もはや北条氏にとって利用価値がなくなったためでしょう、存在感を見せることができないまま、1575(天正3)年、古河城で寂しく亡くなりました。

 葛西城に話を戻します。足利義氏が移座した後の葛西城に対する北条氏の支配も、決して安定したものではありませんでした。

 足利義氏が関宿へ移座した後、上杉謙信(以下、単に謙信といいます。)と三代目北条氏康、四代目氏政親子とを対抗軸とする抗争に巻き込まれていくのです。1560(永禄3)年8月末、謙信は、有力国衆の殆どを味方につけ、関東管領山内上杉憲政を擁し北条氏の本拠小田原城に向けて進軍を始めました。

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<上杉謙信像:出典Wikipedia>

 小田原城にまで侵攻を受けるという深刻な事態に見舞われた北条氏は、武田信玄と今川氏真の支援を受け、辛うじて謙信を10日ほどで小田原から撤退させることができました。

 この間、葛西城は、1560(永禄3)年末頃には謙信方についた岩付太田氏により攻略されたと推測されていますが、謙信が越後に帰国するや北条氏康は、反転攻勢に転じ、1562(永禄5)年4月、再び葛西城を攻略して支配下に収めることに成功しました。

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<北条氏康像:出典Wikipedia>  <北条氏政像:出典Wikipedia>

 北条氏康は、1559(永禄2)年12月23日に、北条氏政に家督を譲り、隠居しました。隠居したといっても、北条氏康は45歳で北条氏の最高権力者でした。北条氏康、氏政親子は、二御屋形と称されており、謙信に対する反転攻勢も、北条氏康が指揮を執っていたのでした。

 この時以降、豊臣秀吉によって、1590(天正18)年5月、小田原城が攻め落とされるまで、葛西城が攻略されることはありませんでした。

 謙信の関東侵攻は、房総里見氏、常陸佐竹氏といった反北条勢力からの要請に応えるものでしたが、目的はそれだけではありませんでした。1560(永禄3)年は、東日本の広い範囲が飢饉になり、疫病が流行しました。謙信は、越後国内の飢饉対策の一環として、作物の略奪を目的として関東に雪崩れ込んだのです。飢饉下での口減らしと他国での食糧確保の一石二鳥を狙ったのでした。

 謙信は、その後も1567(永禄10)年まで毎年のように冬になると関東に侵攻し、春の終わりころには越後に帰国するというパターンを繰り返していきます。一石二鳥の目的は、決して謙信の専売特許ではありません。戦国大名の論理では、ごく当たり前のことでした。

 永禄年間に関東地方を襲った飢饉の大きな原因に、謙信と北条親子との戦争があったことは間違いありません。

 略奪された村々の農民の苦しみは、半端なものではありませんでした。戦場の死者の半ばは、餓死をした人たちだったとも言われている位なのです。

 かくては、略奪された村々の農民たちは、村々を捨てて逃げ出し、村々は荒廃していきます。自ら招いたこととはいえ、戦禍の村の救済は、戦国大名たちの大きな課題になっていました。北条氏康の45歳という壮年での引退も、切迫した状況に置かれた百姓による広範な「詫言」(提訴)を緩和させるために演じられた起死回生の政治ショーとみられています。

                                                   つづく