再び話を葛西城に戻します。

葛西城を攻略して北条氏の支配下に収めたとはいえ、葛西城を巡る政治情勢は、不安定な状態が続きました。

 1564(永禄7)年1月7日から8日にかけて、北条親子対里見義弘・岩付の太田資正・江戸の太田康資の連合軍との間で第2次国府台合戦が起こりました。里見・太田連合軍のバックには謙信の影がちらついています。

 戦いの端緒は、里見軍の北条方の籠る葛西城への攻撃にあったといわれており、主戦場は、太日川(江戸川)の東側でした。

 里見義弘は、国府台に8,000人の軍勢で陣を構え、20,000人の北条氏康率いる軍勢を迎え撃ちました。

 1月7日の戦いでは里見方が大勝しましたが、翌8日、勝利に酔いしれる里見方に夜襲をかけた北条氏が勝利しました。

 この戦いの主な舞台になったのが、矢切の渡しの東側に広がる矢切台でした。

 矢切台へは、戸定が丘歴史公園そばの停留所からバスで下矢切まで向かいます。

 下矢切のバス停から矢切の渡し方面へ徒歩10数分で、激戦地「大坂」の坂に着きます。

 現在、そこには西蓮寺と野菊の墓文学碑があります。

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    <古戦場・西連寺>       <野菊の墓文学碑>

  第2次国府台合戦で里見方は、5,000名の戦死者を出して敗退しましたが、この古戦場は長らく忘れ去られていました。

 江戸川から矢切台古戦場跡の間にはネギ畑が広がっていて、激戦の跡を偲ぶことができます。

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<江戸川から矢切台古戦場跡を望む>

 下矢切のバス停まで戻って国府台病院のバス停へ向かい、そこから徒歩10分位で里見公園に到着します。

里見公園は2度にわたる国府台合戦の古戦場でした。

 1829(文政12)年になって、里見公園内に里見将士亡霊の碑が建てられました。写真左側が里見諸士軍亡塚、中央が里見諸将霊墓、右側が里見広次公廟です。

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   <里見将士亡霊の碑>           <夜泣き石>

 3つ並んだ石碑のそばに夜泣き石があります。

 第2次国府台合戦で戦死した里見広次(弘次ともいう)の当時12~3歳の末娘が、父の霊を弔おうと安房の国から国府台の戦場に辿り着きました。そして、余りに凄惨な戦場を見て恐怖と悲しみに打ちひしがれて、傍らにあった石にもたれて泣き続け、ついには死んでしまいました。

 以来、毎夜その石から悲しい鳴き声が聞こえるようになり、いつしか里人はその石を夜泣き石と語り継ぐようになっていました。

 そんなある日、一人の武士が通りかかり、哀れな娘の供養をしたところ、泣き声が聞こえなくなった、との言い伝えがありました。

 大変悲しいお話ですが、里見広次は当時15歳の初陣で、とても12~3歳の娘のいるような歳ではありませんでした。

 どうしてこんなお話が広く伝わってしまったのでしょうか?

 かって夜泣き石は、里見広次公廟とともに近くの明戸古墳のそばに設置されていたことから、里見広次にまつわる伝説の石として、誤って語り伝えられたのではないかといわれています。

 因みに明戸古墳は、6世紀後半から7世紀初頭にかけて作られた豪族の前方後円墳で、今も石棺が残されています。

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     <古墳>               <石棺>

 里見氏に関わる石碑や夜泣き石が、戦から200年以上も経ってから建てられたのは、日本人の判官びいきの一典型といえるかもしれません。

 北条氏は、この里見氏とその後も攻防を繰り返し、その攻防は1577(天正5)年11月に和睦が成立するまで続きました。

和睦成立後の葛西城は、北条氏の前線基地から中継・補給基地に変容し、比較的穏やかな日々が続いたと考えられています。

 残念ながら、このような日々は長くは続きませんでした。1590(天正18)年5月、豊臣秀吉が小田原攻めを行ったのです。

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 <豊臣秀吉像:出典Wikipedia>

 その時、江戸城をはじめ周辺の北条氏の城も攻められて次々と開城降伏していきました。

 そのような情勢下、葛西城だけは最後まで抵抗を続け、ついに徳川家康の家臣戸田忠次によって攻め落とされたといわれています。 

 築城からほぼ130年後のことでした。長年の宿敵上杉氏によってではなく、突然現れた豊臣秀吉という強大な勢力によって飲み込まれ、その天下統一への露払い役を演ずることになってしまったのです。戦国時代の悲しい定めというしかありません。

                                              完