江戸後期の火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためがた)長谷川平蔵、通称「鬼平」は、池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」によってあまりに有名です。これまで松本幸四郎、丹波哲郎、萬屋錦之助、中村吉右衛門がテレビドラマで鬼平を演じ、圧倒的な人気を博してきました。

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 しかし、この鬼平が実在の人物であることを知る人は、必ずしも多くはないと思われます。

 鬼平は、延享2~3年(1745~6年)頃、赤坂築地中之町(今の港区赤坂六丁目)で、四〇〇石の旗本長谷川宣雄と長谷川家の女中との間の子として生まれ、幼名を銕三郎(てつさぶろう)と言いました。

 池波正太郎は、鬼平の幼少年期の生活ぶりを大筋、「平蔵は、十七歳の夏まで、巣鴨村の祖父(生母方の祖父)の家に暮らし続けた。宝暦12年(1762年)父の宣雄は、妻女を説き伏せて平蔵を本所の屋敷へ迎えることを得た。本所に来てからの平蔵は、一通りの文武の道を教え込まれたが、宝暦14年(1764年)十九歳の春に、出村村の高杉道場に入門した。明和2年(1765年)二十歳の正月、何かにつけて妾腹の子と言い立てる義母を殴りつけて以来、屋敷に寄り付かず、白粉臭い深川の岡場所の女たちのところや、無頼仲間のねぐらを泊まり歩いて、中に入った父を困らせたものだ。それでも高杉道場の稽古だけは休まなかった。」「本所・桜屋敷」(一)と、描いています。長じての「火付盗賊改」としての活躍を予感させる巧みな人物設定ですが、些か史実と異なります。

「京兆府伊記事」という京都在住の浪人岡藤利忠が記した記事に、次のような記載があります。「厳格な父宣雄は、すでになく、平蔵は役職がなくて毎日退屈な上、家禄の他に父の遺産まで相続した。約7か月間の小普請組時代に放蕩にふけり、父が節約して蓄えた金銀を浪費した。」

 この記事を信頼するならば、鬼平の放蕩三昧の時期は、安永2年(1773年)鬼平28歳ころから約7か月の間のことになります。

 また、研究者の重松一義氏は、「鬼平は、誕生と同時に家女の実家筋の本所にある持ち家か、長谷川家の抱え屋敷に預けられ、時々実家に帰るような生活をしていたのではなかろうか。」「本所はがんじがらめの屋敷の空気と違って、自由で小粋で歯切れ良い別天地として気に入った。」「堀の多い本所・深川では、堀になじみ、水になじみ、本所の河童と呼んだ方が似つかわしい幼童として育っていった。」「堀・橋・路地や裏町を飛び回った挙句、死の匂い、血の匂い、犯罪の臭いが染みついた江戸下町の暗所・隠所の場所をも否応なく知った。」として、平蔵は、生まれた時から本所育ちだと考えます。

「本所の銕」の異名は、余所者がちょっとやそっとで付けられるものではない。永くその土地にあって実績に裏打ちされた馴染みの愛称というべきだ。」というのが、その根拠です。

 史実は如何に?鬼平の年譜と鬼平犯科帳、京兆府伊記事、重松一義説の三つを見比べてみます。

<年譜>

 1745年(延享2年) 平蔵誕生

1750年(寛延3年) 5歳のとき養母死去

1764年(明和元年) 19歳のとき本所の屋敷へ引越

1768年(明和5年) 23歳のとき将軍家治初御目見得

同 年(明和5年)~1769年(明和6年)結婚

1771年(明和8年) 父宣雄が火盗改助役に

1772年(安永元年) 父宣雄が3月に火盗改本役に 

同 年10月    父宣雄が京都西町奉行に命じられ、家族で京都へ

1773年(安永2年) 父宣雄死去。平蔵家禄を継ぎ小普請組へ

1774年(安永3年) 西の丸御書院番となり、出世街道を走り始める

<鬼平犯科帳>

1762年(宝暦12年)17歳のとき平蔵が入江町の鐘楼前の屋敷に迎へ

            いれられた。

1764年(宝暦14年)19歳のときに高杉道場に入門した。

1765年(明和2年) 20歳のとき義母を殴りつけて家を出て放蕩三昧。

<京兆府伊記事>

1773年(安永2年) 28歳のころから7か月間放蕩三昧

<重松一義説>

 1745年(延享2年) 誕生とともに実家筋の本所の持ち家などに預けられて育った。

 放蕩無頼の生活は、鬼平犯科帳では20歳から、京兆府伊記事では28歳から、重松説では幼少年時代から、となります。

 まず「京兆府伊記事」をとり挙げます。この記事は、鬼平が没して20数年後に書かれたもので、記事そのものも筆者である牢人岡藤利忠の耳に頼ったものでもあるため、誤聞も多いと言われています。例えば、史実では鬼平が京都に滞在していた時期は鬼平28歳頃であるのに13歳と記しているのです。

 それだけではありません。「父宣雄が死んだ後の約7か月間の小普請組時代に放蕩にふけり」と記しているのですが、この記事内容にも疑問符を付けざるを得ません。父宣雄が死んだ時期は、安永2年(1773年)鬼平28歳頃です。

 23歳の時に長谷川家の跡取りとして将軍家治に初御目見得を済まし、23~4歳の頃に結婚をし、既に立派な旗本の当主になっているのです。しかも、西の丸御書院番となった安永3年(1774年)以降は、田沼時代の最盛期に当たり旗本として出世街道を最短距離で駆け始めるのです。

 「放蕩にふけっていた7カ月」の直後から出世街道を駆け始めるというのでは、些かリアリテイを欠きます。この説は採用しがたいのではないでしょうか。

 それでは「鬼平犯科帳」の20歳説は、どうでしょうか?

 鬼平は、極道をして悪友どもと交流し、江戸の暗黒面を覗くうちに庶民の義理人情から恐喝や詐欺の手口、盗品の売り捌き方、悪党の逃走先まで実地に学び、その経験を「火付盗賊改」の仕事に生かすことができた。とするのが鬼平の放蕩三昧説のエッセンスになります。

 池波正太郎は、「京兆府伊記事」の記事等に、作家的想像力を働かせて鬼平の青少年時代の姿を創り出したと思われます。

 20歳から放蕩三昧の話も池波正太郎の筆力のなせる業でしょうか、無理なく読ませる力があります。しかし、20歳から放蕩が始まったと仮定すると、23歳のときに将軍お目見えとなり、その頃結婚までしているのですから、鬼平の放蕩期間も精々2~3年しかありません。こんな短期間の悪友との交流だけで、悪党との太いパイプを作り、その手口に精通することができるでしょうか?しかも鬼平は、そのような人脈・手口を正義のために活用しようというのですから、この間相当の人間力も養わなければならなかったのです。池波正太郎説も些か無理があるように思えてなりません。

 重松説に従って幼少年時代から本所界隈を遊びまわった経験が、鬼平の人格のバックボーンになっていったと考えた方がしっくりくるように思われます。

 重松説を踏まえながら、鬼平は、放蕩三昧の生活の中で犯罪の噂が集まる小料理屋、煙草屋、船宿、博奕場、岡場所といった当時の歓楽街で働く無宿無頼者らから「銕のためなら命も捨てられる。」といった信頼を勝ち取っていった。 

 そして、鬼平の放蕩三昧の生活は、火盗改方として凶悪犯を逮捕・追跡する際の情報収集の強力な武器になり、「人間というやつ、遊びながらはたらくものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事を働きつつ、知らず識らず善事を楽しむ。これが人間だわさ。」「谷中・いろは茶屋」(二)と、貧困にあえぎ生活のために犯罪に手を染める最下層の人々の心情の理解を深めていった。と考えたいのですが、どうでしょうか。

 前置きはこの程度にしておきましょう。いよいよ鬼平ゆかりの地を巡る旅に出発しますが、旅に先立って一言。

 この旅は、下町の歴史の虚実の合間を行ったり来たり訪ね歩く旅です。くれぐれも虚実混同されませんように。

 手始めは、鬼平の剣友岸井左馬之助が寄宿していた東武線押上駅近くの春慶寺です。

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 浅草通り沿いにあるこの寺は、元和元年(1615年)浅草森田町にて創建、寛文7年(1667年)現在地へ移転しています。今ではスマートな鉄筋コンクリートのビルになっています。

 このビルの入り口に、俳優江守徹が揮毫した「岸井左馬之助の寄宿の寺」との石碑があります。

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 左馬之助は、下総の国印旛郡生まれの高杉銀平道場の同門で、鬼平と同い年でした。