話を元に戻します。

頼朝は、あくまで平家の人質に過ぎません。平家が頼朝を源氏恩顧の武士団ばかりに囲まれた地に置いた筈はありません。帰順工作はそう簡単に成功する訳がないのです。

頼朝は、上陸後、安西景益の下に逗留しながら、源義朝の下で保元の乱を戦った丸信俊を案内人として南房総市朝夷郡の丸御厨を巡検したりしながら、帰順工作に努めました。9月2日には葛西清重、9月9日には千葉常胤、と平氏家人は順調に帰順してきましたが、房総で最大勢力を誇る上総広常が何時まで経っても帰順してきません。  しびれを切らした頼朝は、9月13日、300騎を率いて下総に向けて安房の平松城を出発しました。

  この時の進軍ルートは、①東京湾を船で北上、②太平洋側を船で北上、③内陸を北上、の3ルートが挙げられておりますが、どの説も決定打には欠けるようです。

  いずれにせよ、300騎で出発した頼朝軍は、上総・下総と進軍する道中、東国武士を続々と集めて軍勢を増やし、9月17日に下総の国府、太日川(現江戸川)東岸の市川に至り、9月19日にようやく上総権介広常の大軍が到着した時点では、2万人近い大軍勢になっていきました。 吾妻鏡によれば、頼朝軍は同年10月1日には「鷺沼御旅館」に入って、軍勢の集結を完了し、同月2日に隅田川を渡河したとされています。  ここで、また疑問が生じます。9月17日には市川にまで至っていながら、何故隅田川渡河までにこれ程時間がかかってしまったのでしょうか?

上 総広常の帰順でほっとする間もなく、今度は江戸重長が、同じ秩父平氏の一門葛西清重の度重なる説得にも拘らず、頼朝軍に従おうとしなかったのです。

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                        <江戸重長銅像(慶元寺)>               <大槻文彦旧蔵葛西清重夫妻像>

  江戸重長が頼朝軍に従おうとしなかった原因は、二つありました。

その一は、石橋山の戦いの遺恨です。江戸重長は、頼朝を攻めた大庭景親軍に加わって、本拠衣笠城に頼朝の援軍として立て籠もった三浦義明を討ち取っていました。三浦氏は、平氏の一門であるにもかかわらず、古い歴史を持つ源氏との主従関係を理由に頼朝軍に加わり、頼朝軍の挙兵に際しては大きな役割を果たしていました。江戸重長を親の仇と狙う三浦義明の子義澄が頼朝軍の中核にいたのですから、容易に頼朝軍に加わることはできません。頼朝は、葛西清重に江戸重長に対する懐柔工作をさせ、それが成功しないとみるや暗殺までさせようとしたが、うまくいかなかったのです。

その二は、江戸氏は、江戸湊を中心に武蔵の国を支配して、その後背地のもたらす大きな経済的利権を手にしていたことです。荒川上流部で一族の秩父氏が鉄や朱などの産地を把握し、中流部でやはり一族の河越氏が農産物と労働力を供給し、河口部で江戸氏が流通機能を分業していたのです。

  帰順工作に手間取り、隅田川渡河までにずいぶん時間をとられましたが、時間が掛かった原因としてもう一つ洪水を挙げることができます。

  室町時代に書かれた義経記に、「隅田川には)海より潮さしあげて、水上には雨降り、洪水岸を浸して流れたり。ひとへに海を見る如く、水に堰かれて五日逗留し給う。」との記載があります。当時太日川と隅田川の間の沖積低地は、洪水で水浸しになって通行困難に陥っていたと思われるのです。 このような膠着状態にしびれを切らした頼朝は、10月2日、3万に膨れ上がった軍勢の第一陣を太日川・隅田川を押し渡って隅田宿まで攻め込ませました。国芳が1852年頃描いた浮世絵には、舟の上に板を並べ筏状にした舟を連結して漕ぐ様子が描かれています。

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        <歌川国芳「隅田川筏渡之図」>

  江戸重長は、頼朝が隅田宿を経て長井渡しに向かった時に、ようやく頼朝の陣営に参陣し、同月4日の第二陣の隅田川渡河に協力しました。頼朝が、三浦義澄に対しては、大願成就のために江戸氏をはじめとする秩父平氏に対する確執は捨てるように命じ、江戸重長に対しては、武蔵の国の本領安堵を約束したからでした。

 話が前後して申し訳ありません。話を鷺沼に戻します。

 頼朝軍の集結が完了した「鷺沼御旅館」とは、習志野市内の「鷺沼」だったのか?それとも葛飾区柴又の「鷺沼」だったのか?鷺沼比定問題は、かねてより歴史上の謎になっています。

 江戸時代の後半、三島政行が著した「葛西誌」(1821年)が、「鷺沼というは千葉郡二之宮庄に属する地にして今も鷺沼村と唱えり」として以来、習志野説が踏襲されてきました。

 しかし、この説に従うと、既に太日川東岸の市川にまで軍勢を進めており、太日川を渡った下総国葛西郡は、既に帰順していた葛西清重親子の地盤であったにもかかわらず、なぜ集結地をわざわざ習志野まで戻ってしまったのか?との疑問が生まれてしまいます。

 中世の下総国葛西郡は、現在の葛飾区・江戸川区・墨田区・江東区に該当します。

 武蔵国豊島郡を本拠とする豊島権守清元の子三郎清重は、治承元年(1177年)以降、頼朝が挙兵する治承4年(1180年)までの間に葛西の地を譲り受け、葛西氏を名乗りました。この清重が関東の葛西氏の初代となり、葛西氏は六代清貞まで葛西郡を本拠とすることになります。

  他方、柴又説をとると、このような不自然な行動をとらなくて済みます。

柴又の「鷺沼御旅館」があった場所だと考えられているのは、現在の柴又2丁目古録天神社所在地の「鷺沼」です。

 果たして、どちらが「鷺沼御旅館」所在地だったのでしょうか?

 現地調査が基本ですが、何せ850年近い時を超えての足跡調査です。

 果たして、どこまで真実に迫れるのか?自分の目で確かめることにします。

 まず、津田沼の「鷺沼城址公園」を目指します。

 京成津田沼駅南口から、習志野市役所方向へ向かい、市役所の角を南側に菊田遊歩道(ハミングロード)を15分ほど歩きます。

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                               <遊歩道>       <公園入口への坂道>

  遊歩道から東側に18メートルの高さの丘を登ると、鷺沼城址公園に出ます。いきなりコンクリート製の古墳建屋や馬の埴輪のレプリカが目に飛び込んできます。

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                   <古墳建屋>          <馬の埴輪>

小屋の中を覗くと石棺があります。鷺沼古墳群B号墳の石棺で、凝灰岩でできています。

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          <古墳内石棺>

 公園の中ほどには「鷺沼源太満義諸武士之碑」もあります。

 この公園、ありふれた公園にはない、ただならぬ雰囲気が漂っています。

 ここが鷺沼御旅館の本命かと色めき立ち武将の石碑の碑文を読んでみると、この石碑は戦国時代の北条氏と里見氏とのいわゆる第二国府台戦争に参戦して敗れた里見方の武将を記念するもので、鷺沼御旅館とは関係がありませんでした。

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            <石碑>

 そもそも鷺沼城址公園の位置する鷺沼台地は、古墳時代から人々の生活が営まれていた場所で、居住のための好条件が備わっていたと考えられています。

大宝律令国家は、大宝元年(701)年、都城を中心に七道を整備し、ほぼ4里(16キロ)ごとに駅家を設置しました。

東海道は、下総には井上(墨田区寺島)、浮島(習志野市鷺沼),河曲(かわくま;千葉市寒川)の三駅がありました。浮島は、井上から河曲までの丁度中間地点に当たるという位置関係にあります。そして、海抜18メートルの台地は、遠くから見ると浮島に見える高台で大軍勢が終結するに相応しい地形になっています。

 ただ、鷺沼城址公園は一周290メートルとあり、とても大軍勢が集結できるだけの広さがありません。

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     <鷺沼城址公園内標識>   <鷺沼台地から幕張新都心を望む>

 はて?と首を捻りましたが、鷺沼城址公園は鷺沼台地のほんの一部に過ぎません。公園の南北に台地が続いています。そこには民家が立ち並んでいて、公園の南側台地からは、幕張の高層ビル群も見渡せます。

3万人程度の軍勢ならば優に収容できそうです。

                                            つづく