次に、柴又2丁目古録天神社に向かいます。

京成柴又駅を降りると、「寅さん」と「さくらさん」が、出迎えてくれます。

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              <寅さん銅像>   <さくらさん銅像>

  寅さん兄妹への挨拶もそこそこに、旧国分道を西に向かいます。柴又八幡神社を通り過ぎると、右側に辛うじて車が二台やっとすれ違える程度の道路と左側の立派な道路の分岐点があります。

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    <国分道分岐点> <国分道を古録天神社へ>

  古道である国分道がそんな立派な道路であった筈はないと思い定め、右側の細い道を歩きます。7~8分で古録天神社に到着です。

小さな何の変哲もない神社です。この神社の石碑の裏側に回ると、「古ヨリ鷺沼と称シ」との記載があり、この地域が昔「鷺沼」といわれていたことがわかります。古録天は、微高地で大正2年の古地図を見ると、確かに新宿(にいじゅく)から柴又を経て矢切まで通じる国分道が東西に延びている場所に鎮座されております。

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    <古録天神社>       <赤線部分が旧国分道>

 鷺沼城址公園と比べると、それらしさには欠けますが、この地も古来人の行き来が盛んであった場所であったことは間違いありません。

今来た旧国分道を江戸川方面に戻ると、江戸川堤防を経て矢切の渡しに続いています。

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     <矢切の土手>    <矢切の渡し>

 柴又「鷺沼」説を唱える方は、保暦間記という14世紀に書かれた書物に「須田(隅田)・八切(矢切)を渡って滝の河原にて」との記載に注目します。太日川の浅瀬は矢切にしかなかったし、この記載から渡河地点は矢切であることは間違いない。頼朝はそこから国分道がある柴又の鷺沼を通って隅田宿へ向かった筈だと主張します。

 以上、二つの「鷺沼」を見て回りました。鷺沼御旅館比定問題への回答は、現地調査だけでは得ることができませんでした。

 「鷺沼鷺沼御旅館」比定のためには、もっと多面的な検討が必要なようです。まずは当時の東京東部地域の地形から検討してみます。

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     <ジネフロント社地質時代9号より>

 東京東部地域とは、西は隅田川周辺から東は太日川までの地域を指します。

 この地域の中世の流域図があります。

 この流域図によると、太日川(上の地図では大井川と記載されています。)も隅田川も利根川の下流であり、二つの川の間に中川が存在していました。太日川と隅田川は、数千年にわたって洪水の度に流路を変え、両河間の距離も広がったり狭まったりしてきていたと言われています。

 ですから、頼朝の隅田川渡河の1180年頃のこの地域の両大河の流れがどうであったのか確定するのは容易でありません。

 東京湾の河口部は、両大河が運んでくる土砂によって堆積した土砂によって次第に陸地化した沖積低地でしたので、東京湾の湊であった浅草湊が、東京湾の海退の進行によって隅田川下流部の湊に変化して、次第に日比谷入り江の河口部将門首塚周辺の江戸湊にその役割を奪われるような状態になっていました。

このような地域でしたので、義経記にもあるように、ちょっとした雨が降るとすぐに氾濫してしまったと思われます。

この地形上の理由から、隅田川の氾濫の直撃を受けたであろう柴又の「鷺沼」に3万人もの大軍が集結することは、無理であったと考えられます。

 また、吾妻鏡によれば、柴又「鷺沼」説をとると、集結させた大軍を一度太日川の東岸に戻してから、再度太日川を西側に渡らせるという訳の分からない行動をとらなければなりません。

さらに言えば、10月2日に「鷺沼」を出発した頼朝は、その日のうちに隅田宿に到着しています。柴又の「鷺沼」と隅田宿との距離は、指呼の間とまでは言えないとしても余りに近すぎます。江戸重長の支配領域と目と鼻の先に集結して、地の利のある江戸重長と長期間睨みあっていたとは考えにくいのです。

以上、B級歴史探偵としては、津田沼の「鷺沼」説に軍配を上げたいと思います。読者の皆様は如何判断されるでしょうか。

 さて津田沼「鷺沼」説を採用したとしても、次に隅田宿は隅田川の東岸なのか西岸なのか?という謎が残されています。

隅田宿東岸説を採ると、江戸重長の支配地域が隅田川の東側にまで広がっていたことになり、柴又「鷺沼」説は益々分が悪くなってしまいます。吾妻鏡には、江戸重長に長期間足止めを食らい、業を煮やした頼朝は隅田川渡河を強行して隅田宿に辿り着き、隅田川渡河後に、乳母の寒河尼が頼朝に会いに来たとの記載もあります。このような記載を素直に読めば、西岸説が正解のようにみえます、

しかしながら、一般には隅田川神社の場所が隅田宿と理解されています。隅田宿の所在地問題は一時棚上げにして、東武鐘ヶ淵駅から隅田川東岸の隅田川神社を目指して、旧東海道を歩きます。頼朝軍は、先程の中世の流域図にあるように、隅田宿には小岩・奥戸・立石・四ツ木・寺島と東海道を経由して辿り着いたと考えられます。

現在は、隅田川と太日川(江戸川)の間には、荒川放水路が掘削されているので、鐘ヶ淵駅から東側へは荒川土手までしか歩くことが出来ません。荒川の土手から旧東海道を眺めてみると、緩やかにカーブしながらも直線に近い道路であることが分かります。

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    <鐘ヶ淵駅>      <荒川土手から旧東海道を望む>

旧東海道は、今では何の変哲もない道路ですが、鐘ヶ淵駅から西側も直線で造られたという東海道の痕跡をとどめています。

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  <鐘ヶ淵駅から旧東海道を西へ>  <都営白鬚東アパート>

旧東海道を西側へ隅田川神社方面へ歩き出し墨堤通りにぶつかると、隅田川の東岸に巨大な都営白鬚東アパートの団地が現れてきます。この団地は、関東大震災で墨田区が甚大な被害を被ったので、1982(昭和57)年、防災拠点とすべく一列に連なって建設された大団地なのです。

この大団地の真ん中辺りに隅田川神社と書かれた標識と鳥居が立っています。鳥居をくぐる道は、団地への出入り口と神社の参道を兼ねているようです。

何とも奇妙な道路を通って団地を横切ると、そこには緑一杯の都立東白鬚公園が広がっています。

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   <隅田川神社鳥居と標識>   <鳥居を通り抜けた東白鬚公園>

凡そ参道らしい目印が何もない公園を白鬚東アパートの団地を背にして隅田川に向かって進むと、隅田川神社に到着です。

神社に到着すると、その社殿の屋根には何と首都高が載っています。

かっては水神社と呼ばれ、江戸名所図会にも登場する由緒ある神社なのです。

今昔の姿の落差には、思わず溜息が出てしまいます。

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       <墨田川神社>      <江戸名所図会水神社>

隅田川神社の由緒には、頼朝が挙兵の折の治承4(1180)年当地に至り、水神の霊験に感じて社殿を造営したとあり、同神社は隅田宿東岸説を採用しているように思えます。

しかし、隅田川神社前の墨田区教育委員会の案内板には「義経記に墨田の渡り両所とみえ、隅田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがえます。対岸の関係については今なお不明な点を多く残しますが」とあります。

墨田区教育委員会は、隅田宿両岸説を採用して現在の東白鬚公園一帯を東岸の隅田宿と考えているようです。

大正8年に、隅田川神社を隅田川から撮影した写真を見てみると、隅田川には現在のような高い護岸はないため、対岸と一体性のある宿場であったとの説明にも、思わず頷いてしまいます。

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 <1919(大正8)年当時の隅田川神社>

 既に述べたとおり、隅田川は洪水の度に流路を変え、太日川との間隔も広がったり狭まったりを繰り返していたのですから、隅田宿は隅田川の東に位置したり西に位置したりを繰り返すうちに隅田宿が東西両岸に分かれてしまった可能性も十分あるのではないでしょうか。

 江戸重長は、10月4日には隅田川を渡河した頼朝軍に河越重頼・畠山重忠とともに参上しました。

 隅田宿を過ぎた西側には「長井の渡」が待っていましたが、この渡しは、江戸重長のしつらえた船を並べた浮橋で渡り、滝野川、板橋、府中から相模国を経て10月6日には鎌倉に入りました。

 翌7日には鶴岡八幡宮を参拝し、15日には修造なった亡父旧義朝邸に入り、そこを政権の基盤としました。

鎌倉幕府の歴史は、この日に始まったということができます(源頼朝と鎌倉幕府:上杉和彦著)。

今回は、850年近い時を超えて、源頼朝挙兵の足跡を訪ねてみました。その痕跡は、当然のことながら、ほんのわずかしか残されていません。残された空白部分は、文献的資料で埋めていくしかありませんが、文献的資料もそう豊富ではありません。

この状況、見方を変えると素人の歴史探偵の想像力を膨らます余地がたくさんあると言うことになり、ここに素人が歴史に向き合う楽しさがあるとも言えます。

ご一読いただき、この解釈は間違いじゃないか?といったご意見を抱いた方と素人談議でもできれば、これまた楽しいひと時になるのではないかなどと勝手なことを考えながら、筆を擱かせていただきます。